祝日だったので

まあ、朝から家にいて、雨だし全然外出ていないんだけど。(祝日でなければ午前午後と仕事があるはずだった日で)

朝CCTV見てたら、中国でフツーに連休とかテーマパークとか行ってたり(さすがにソーシャルディスタンスとかマスクとかはしてるみたいだけど)なんか輸入品の博覧会とかしてたり、あとロケットとか飛ばしてたりするのを見て、若干、

コイツら・・・

とかは思わなくもない。

あと、欧米系のニュースはずっとバイデンのスピーチ流してて、それは私の能力では直で聞いて内容把握できなかったんだけど、BBCで後からされてる説明聞いてたら、すべての層によい教育とか職業訓練をする方向だとか聞いて、うまくいけばいいなと思いました。

まあ、アメリカの教育関係の本とか読んでたら、所得の低い移民の多い地域で教育成功している例とか見るので、これが本当なら、格差解消とか期待できるのかなとか思ったり

若干、そういう本で書かれていることの多くが、教科を超えた教育であることが多くて、まあ、世の中で実際に起こることとか、理科だけ、数学だけ、国語だけ、とかいうことがないので、実際に世の中で起こることを、教科を超えて学ぶ力をつけるものが多いのに対して、日本の学校教育が、高学年学科ごとに先生変わるとかになってて、最初聞いたときは、先生の負担減ってイイね!とか思ってたんだけど、教育効果とか考えたら、あまりいい方向じゃないのかしらとか思ったり。

まあ、朝、フロで中国語でアメリカの教育の本を読んでいたら(出たよ、無駄に国際的なヤツ、まあ、原書買うより安くなるんだけど)中国の新事情を書いた本がタブレット開いたときに広告で出て、タイトルが気になったから値段見たら、言うほど高くなかったので風呂の中で購入したんだけど、やはり、新技術に入れてる力が全然違うんじゃないかと思ったり

まあ、日本の場合は、景気が良かった時に、既存の勢力脅かしそうなハイテクとか、そんなことやりそうな人はみんな危険人物っていうか、準犯罪者扱いされそうで、あんまりパソコン系でオタクとかおおっぴらにできなかった時代があったんだけど、(アメリカでもある程度そうだったんだろうけど、あの人たち、「そんなの関係ねえ」みたいにできる人がそれでも出る文化していますからね)中国は、新規勢力を押さえる既存勢力がもともとなかったからかなとか思うし。

正直、日本はガリ勉とかいじめていい、みたいな風潮の時代あったと思うし、なんか、そんな文化のなかでひねくれておかしくなったのがオウムだったんじゃないかなとか思ったりもしなくもない。

なんか、理屈くさくて言ってること全然わからないけど、そっとしとこうとか、仲間にいれよう、みたいな文化があったら、あんな反社会的な組織に入らないでその学力をいい方向で使ってもらえる人材になったんじゃないかと思ったりするし。

まあ、今日は、資格とるための通信教育、提出して一応資格はお金だしたんだから取ろうと思って、提出物の下書きみたいなのを書いて過ごしてはいたんだけど

実際、すごいアメリカの教材とその教師用指導書買ったけど、で、よかったんだけど、現実に日本で標準的な英語教室来る生徒とか設定されている年齢とか考えたら、やりたいところでも取り入れられないところばかりになったけど

なんかねー、今している活動でそのポストにつながらなくもないんだけど、なんか、今その仕事ついている人たちが、若干例の「つながり」みたいなの入っていなかったら枠が回ってこないってヤツかなと気づきつつあるんだけど、まあ、自分から見える範囲で見ても、あ、自分がやろうとしていることができるところじゃない、みたいなのは気づいてて、まあ、できるだけ所得を確保しながら自分が学ぶことができたら、その枠に無理やり入り込もうとしなくても他のことをしたほうがいいんじゃないかは思ってるんだけど。

ってまあ、今やってる枠、来年あるかどうかわからないんだけど。

サザンオールスターズの汚れた台所キッチンの歌詞の

絵にかいたシンボル達やロックンロールは死んだ

あわよくば人生なんて風まかせ

みたいな(歌詞の方は日本語としてはちょっとおかしいんだろうけど)のを低音でシャウトしたくなるんだけど、

収録していたアルバムYoung Loveはあんまり好きなアルバムではなかったので、iPod Touchには入れてなくて、発売された当時に少ししか聞いてなかった曲なんだけど、YouTubeで音楽もプレミアで聞けるようになってスマホで聞いてたら流れるようになって

ああ、ある程度地位を確定していたサザンが、この時期伸びしろみたいなのに陰りが見えて、このあとどうなるんだろうと動揺していた時期だったんだろうな、みたいなのが、今聞いててわかるような気がするし、それが今の自分の世代の人々に当てはまるような気がしなくもない。

まあ、まだ引退するには早くて、今の生活の基準を保って生活したいなら、まだ活躍しないといけないんだけど、上からも下からもはさまれて、自分の実力で生き残れるんだろうか、みたいなのを、感じなくもない。

Noneが老後面倒見てくれるとか、主人が生活援助してくれるとかなら、今必要だと思うことを総括して調べたりする時間にしたいんだけど

って、図書館が緊急事態宣言で閉まる前日に図書館行ってて、ある程度勉強になりそうな本は借りてきてるんだけどね。

Schools That Learn: A Fifth Discipline Fieldbook for Educators, Parents, and Everyone Who Cares About Education (English Edition)

これ今キンドルで549円で、もともとジュンク堂で和訳されている本を見て、コレ欲しいと思ったんだけど、高すぎて

学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する

5280円の翻訳版と、549円のオリジナルだったら、迷わずオリジナル買ったんだけど、英語力がアレなので、実際より期待こめてる内容で解釈してないかとか自分で不安だったりしたので、和訳本が図書館で実物あったから、自分の勘違いとかないか確認するつもりでいるんだけど。

今964ページある中の、107ページまでしか読めてないんだけど。

って、英語で読んでて、めっちゃ印象に残ったところがあったんだけど、めっちゃ長いところだったから、ハイライトとか入れないで読み進めてしまって、いつか誰かに伝えたいと思ったのに、英語版読み直してどこだったか探せなくなっていたのを、日本語版で読み直したら、さすが自分の母語なので、数分で見つけられたんだけど、

和訳のところを引用したいんだけど(著作権的にこの長さ許されるのか自身ないけど)

▶①子どもは「欠陥品」であり、学校は子どもを「修理」する

 数年前、ある教育者が、以来これまで決して私が忘れることのないある話をしてくれた。

「私たちは、幼いその子が学校でトラウマに悩まされていることに考えも及ばないのです。」

 この女性が言っているトラウマとは何のことだろう。

 私たちの中に、学校に行ってはじめて、自分は絵が下手だと知ったという人がどのぐらいいるだろう。先生から、あなたは音痴だから他の子が歌っているときに声をださないように、と言われたひとはどうか。はじめて数学が苦手、国語(英語)が苦手だと知った人も・・・。自分に対したこうしたレッテル貼りを免れた人はほとんどいないのではないか。いつの間にか忘れているかもしれないが、私たちは昔、心の片鱗に「自分に対して下された評定」を隠しもち、しばしば同時に自分が見たくない血管から目を逸らせる方法を身につけている。

 こうしたトラウマが生じるのは、産業化時代の中核的な価値である「順応性」のためだ。組み立て作業ラインが次々と予測できないものを生み続けたら、それは効率的ではない。しかし、自然はまさにそうしたことをし、絶えず多様なものを生み出し続ける。組み立てラインの思考の中に、組み込まれた標準化の重視は、できの悪い「原材料」と見なす。学校システムはこの原材料と働きかけ、教育された終生産物を生むためにあるというわけだ。学校外では学習は能率的で自然に起きる(私たちは毎日の生活を通して絶え間なく何かを学び続けている。)しかし、一旦学校に入ると学習は違う見方で捉えられる。イェール大学のカマー・プロジェクトの元代表者で職員研修の専門家でもあるエド・ジョイナーは、これを「欠陥品の視点」と呼ぶ。これは学校の仕事は生徒が生まれつきもつ「欠陥」を「うまく修理」することだ、と考える教育者や保護者によく見られる態度だ。

 教育者たちは、この「欠陥品の態度」を公言することはない。しかし、学校の生徒は一人残らずその辛さを知っている。そして、それは特定部分の自己評価に留まることなく自分の存在全体へと広がる。はじめての数学の成績でCやDをもらった生徒は、彼らの答えが間違っていただけではなく、彼ら自身が「間違っている」という結論に至る。学校の教室で下される評価は、やがて何もかもを奪い去る自己評価につながる。

(中略)

「欠陥品の視点」は、議論の俎上に上げようがないだけに致命的だ。大人が自分も子どもの時には粗雑な扱いを受けて、「これが当たり前だ」と考えている場合には、子どもは自分が感じていることを言い難い。自分の仲間も粗雑に扱われているのをみると、これらについて議論することはさらに難しい。

ピーター・M・センゲ 『学習する学校』英治出版 p67~69

ここね、めっちゃ呼んでてアタマにこびりついていたんだけど。

「大人が自分も子どもの時には粗雑な扱いを受けて、「これが当たり前だ」と考えている場合」っていう部分に特にひっかかって。

今まで何度かしていた差別の仕返しの話に似てくるんだけど、まあ、うちの親父、子どものころ沖縄だっていうんで差別受けたとか言って、大人になって何にも関係なかった会社の同僚相手に、大卒だって言って上から対応しようとして、あの人のなかではそれが「復讐」にできると思ったんだろうけど

教師に、ちょっとデキ悪いな、みたいな対応受けて、腹立つのは教師のはずなのに、なんにもしてない、その先生に褒められてしまっただけの優等生いじめるとかも似てるんだけど

大人になって、教える側になって、自分がされたであろう、上から押さえつけるように対応されたことの「復讐」みたいなのを、攻撃しやすい生徒に対してしている教育者がいないだろうか、みたいなのは、前々から思っていて

学習者が今できないことを、「できない」って烙印を押さなくても、よりよくすることができないだろうか、っていうか、工場で生産するような教育をそもそも変えられないだろうか、人間はもともと知識欲があると、もっと前の部分に書いてあるんだけど、それをもっと活かせるようにできないだろうか、

自分で、学びたいと思って、学ぶことができたら、それでいいんじゃないか、みたいな。(若干そこで、今ここトレンドよ、みたいなアドバイスができたらいいぐらいで)

教育に携わる人で、一般企業の仕事がどうなっているか知らない人が多いから、もう終わろうとしている産業革命以降に形作られた教育を、そのまま続けて行けばいいと思っている人がまだけっこういるんじゃないか、みたいなことを常々思っていて

もうね、私も昔先生にそうやって怒られたんだから、あなたも怒られなさい、みたいな、そういうの、けっこう見るような気がして

私の子どものときとか、熱血青春教師のドラマとか、そのあと「〇八先生」とか、あと、だぶ後でもトシちゃんとか教師ドラマしてたけど、教師が主人公のドラマって、いつからいつまで流行っていたんだろう?今もあるのかな?

なんかねー、私は、生徒の方主人公にしたいな、みたいなのがあって、『ナルト』で言えば、生徒がナルトとかサクラとかで、自分カカシ先生みたいな、脇役だけどそこそこいいポジションとれたらそれでいいな、みたいな。

数巻後になったら生徒役の方が強くなっているの当たり前、みたいな感じで。

まあ、生徒押さえつけるようにする先生とか、まあ、そうしないと収集つかないとか、やれば収集つけられる方法ほかにあるかもしれないけど、忙しくて考えられないとか、いろいろあるんだけど、時々、生徒の上に出るの嬉しくてしゃーない、みたいな人とか、(ぶっちゃけジェラートとかな、人の上に出れそうな場面で漏れなく上から出てる気がする。正直、お子さん上から言える学校行ってたら、絶対マウント取りに来てると思ってるけど、言ってこないからそのぐらいのとこかな、とか勝手に思ってたりして。受験前にNoneの仮面で受ける大学の判定が悪いから、諦めてるんですとか言ったら、「判定とか関係ないない。」とか言うから慰めてくれるんかと思ったら、「ウチの子なんか、去年判定Bだったのに、ダメだったから、もう判定なんか関係ないから。」みたいに言われたよ。結局ソレただの自慢やないかい、みたいな。まあ、幼児に近い生徒にうるさいとか平気で言うこととか、そのくせ自分が授業中私語多いこととか、自分の方がうるさいやろとちょっと注意するようなことを言ってみても、逆に大声で話し出したりして、性格悪いの直す気ない人ってマジでいるんだ。みたいに思ってて。ホンマずっと見てて、正しいことしようとする人より、悪い人間でも立場が強かったら勝ち、みたいな考え方してるんだろうなって思う。)

まあね、そんなんあったから、ガチで勉強しようと思うことができているんだけど。

まあ、コンビニで働こうとしたときも、あのチーフいなかったらコンビニ辞めて日本語教師になる学校行こうとか思わなかったしな。

って、今、何かYouTube見ようとしても、お勧めの中に日本の動画上がらないんだよな。なんか飛ばされた感すらあるんだけど。

とりあえずこんな感じです。

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