かなり長いこと暖めていた考えだけど

まあ、前回のブログ、思ったよりレスポンス薄かったんだけど。

ずっと思っていたことがあって、最近それを強く認識することが多くて

誰かから差別を受ける、もしくは差別とまではいかなくても馬鹿にされることがあるとする、

もし、そこで嫌な思いをしたのなら、人を差別すること、馬鹿にすることはよくない、と、論理的に言うならそういう結論が出るはず、なのだけど、

他の人を差別する、あるいは差別した人を攻撃する、他の人を馬鹿にする、馬鹿にした人を攻撃する、そういう行動に出る人が多い、

その方が楽だし、考えなくていいし、感情的にスッとするのかもしれない、じぶんのしていることを自分で客観視したりすることがないのであれば。

まあ、差別されることや馬鹿にされることを止めるためのカウンターパンチとかは、穏健にやめてもらうように努めていても止まらないときはある程度アリだと思ってるけど、

まあ、差別をなくすとか、人を馬鹿にする人をなくすとかいう段階の話になると、話が壮大になりすぎて、そうしない人が多いのは仕方のないことかもしれない。

自宅で哲学書読みあさるとか、やることがヒッキーになりがち。

先日、学校の方の最初の授業が始まったけど、行ってみたら、教壇に立ってる先生方とか、ハイソサエティの方々だなあ、という印象を強く受けて、庶民の感覚とか、受け入れていただけるかしら(自分では庶民の感覚をハイソサエティのものに「置き換える」つもりはなくて)と思って先行き暗雲立ちこめている感はありました。

まあ、前に学校に行ったときも、「今は時代が変わったから仕方がないけど、もともと高等教育は一定以上の家庭の子女のためにあったものだ。」とうような内容のことを、残念そうに話す先生もいらっしゃいました。

まん防出たので来週からオンラインですが。

ちょっと、自分が子どものときに受けた教育を思い出すことがあって

まあ、前から言っていますが、小4まで私は遅れている子にひらがななどを教える役割を与えられて、私は授業も受けていなかったし、そうすることで他の生徒さんたちと繋がることもできずに過ごしたのですが、

(ってこれもね、遅れたお子さんのケアとかするのに私小学生の時に4年間従事して、当時はこれはプロの仕事ではないかと思っていましたが、私の時は実際相手に合わせて相手のできそうなことを自由にやれたのですが、プロがやると、本人がまだできないだろうことを学校のプログラムに合わせて、無理してこなさせようとかあるみたいだなあと見聞きすることがあるのですが)

私は、そのときまでそれを、「助け合い」だと説明されていたのですね、あなたがあその「困っている人」を助けることで、あなたが困ったときに助けてもらえるのだ、と。

小4の夏休みが終わる数日前、母が夜中に消えていて、2学期から学校に行くのですが、

2学期からの音楽の授業が、「かあさんの歌」だったりするんですよ、「かぁさんが~よなべぇ~をして」っていうアレ

とてもじゃないけど歌えませんから、他の曲にしてくれませんか?って頼むんですけど、

「あなたのために、学校で決まっている教育内容を変えることができないから、歌いたくないなら音楽室から出ていなさい。」

って言われて

まあ、それからしばらくの期間、音楽の時間は教室の外で立ち尽くしていました。(別にイヤホンで何か聞く、とかいうことなどありませんから、他の幸せな生徒が「かあさんの歌」歌ってるのは聞こえてくるんですけどね、

で、そのあと父に振り回されるので、明らかに成績が落ち始めるんですが、

誰も助けちゃくれねえ。

いや、まあ、今みたいに虐待受けている子どもがいたら通報する義務とか法律がないので、そのあたりは放置されていてもしかたがないかもしれないけど、これはないやろ、みたいな。

まあね、私だけじゃなくて、また、私のような極端な状況でなくて、できる生徒に、理解できないでいる生徒を教えさせる教師とか学校とかにいた人もいたと思うんだけど

ベル・ランカスター法とかいうのの誤った使用法なんだと思うんですけどね、調べるとベル・ランカスター法っていうのは、できる子にその役目ぶん投げるんじゃなくて、教師といっしょに、アシスタント役をさせて教えさせることらしいんだけど。

まあ、そのとき「助ける側」だった生徒が、小学校の時にはなにも困らずに卒業してしまって、中学とか高校になって、授業解らなくなったりするんだけど、そのときは誰も助けてくれない、みたいなこと、あるあるだったりすると思う。

生徒本人の中に、小学校の時、自分がもっと先のことを勉強したかったのに、教える側に指定された子どもとか、大人になって我が子に懸命に先取り教育とかしてしまうとかも、やっぱりあるあるだと思う。

まあ、実際、子どもの時に教える側に回された生徒が、本当は先のことが学びたいならそうできたほうがよかったんだろう、と、思うけど、まあ、その人の子どもにも、本人の勉強したいペースがあって、それは尊重されるべきなんだろうと思うのですが

まあ、これぐらいの高等教育機関に行きたければ、受験時に偏差値どのぐらいが必要で、そこに辿り突くには逆算で何年生にどのぐらいのことができないといけない、とかになってしまってはいて、

ある時期までは、不景気だったり抜け出したりした時期とか、ある程度安定した企業が受け入れるエントリーシートが書ける大学、みたいなのがあった時代なんかは、あるていど仕方がないかなあ、は、思ってたんだけど

もう、そんないうほど安定した企業とかないんじゃない?みたいなのとか、YouTube見てたら、600倍の倍率乗り越えて大人気企業に就職した人が、入ってみると会社の期待ハンパなくて、とてもついていけなくて退社してユーチューバーなりました、みたいな人いるし、

すごいお金と時間と負担かけて、高偏差値大学に行って安定企業、みたいなのが、そんなコスパよくないんじゃない?みたいなのを感じて

まあ、そのお子さんの親が社会的パワーあるとか、いろんな条件で話変わってくると思うんだけど

って、ここから自分の勉強しようと思います。

って、さっきNoneのスマホが。触ってもなんにもしてないのに、

「バ~イトバイトバイトォ~♪」

とか、どこかのバイト紹介サイトのテーマソングが流れ出して

いや、自分が活動するときに、ついでに見つけたNoneに向いていそうなバイト先を紹介し、Noneもその気になって応募して、面接を受けて、なんかそれなりに活動できるほうで話は聞いてたんですが

N「何も触ってへんのに、なんやコレ?」

J「神の啓示や。」

みたいなことを言っていました。

とりあえずこんな感じです。

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