映画『ヴィトゲンシュタイン』

昨日、午前の仕事を12時に終わらせてもらって、午後の仕事の前に家に帰って一度、自分の家でしたいことをしに買えるんだけど、御堂筋線の中津で、地下鉄が止まる。

心斎橋かどこかで、停電かなにかで検査で、当分動かなくなる、ということで、

帰るのはあきらめないといけないとしても、午後の仕事には行かないといけないし、どうしよう、ってなって、

地下鉄、乗り放題券にしてるから、市バスも乗れるし、なんとか動けるんじゃないかと上に上がる。

中津駅上がってみると、私としては梅田と把握している茶屋町のへんで、もうあきらめて梅田まであるいて午後の仕事に行ける乗換駅に行くんだけど。

って、その仕事から帰って、自分が本来家でやりたかったことをやろうとするんだけど、その前に、どうしても

ヴィトゲンシュタイン(廉価版) [DVD]

見たくなって

社会人で外大に行ったとき、読売の深夜番組で放送されていたのを、録画して見たものだけど、(だから、私の記憶では、ホテル大東洋とかのCMが記憶にきつくリンクされていて)

オープニングの、

「人がときに愚かなことをしなければ意味あることは何もなし得ない。」

って言う部分の英語が、もう、めっちゃアタマにこびりついているんだけど。

まあ、前に創造性の話をしたことがあるけど、たぶん、いつものルーティンの繰り返しだと、新しいものは創造されない、という意味で言っているのだと思っているのですが。

まあ、はじめの方からこんな衝撃的なシーンから始まって。

彼はユダヤの大富豪の息子で、母親は芸術関係のセレブとの社交で忙しくて、子どもは家庭教師に預けたままで、ヴィトゲンシュタインの場合は7人の家庭教師がついた。その割になぜか、庶民が行く公立高校に入れられ、歴史なんかはヒトラーと同級生になったりして、庶民のなかに打ち解けられなくて、庶民の「なあなあ」の付き合いに一生憧れて暮らしていく人になる。(真ん中にミシンがあるのは、彼が幼いとき、独自のミシンを発明したから)

大学は最初、飛行機の技術の当時の最先端を学ぼうとするんだけど、失敗し(阪大の工学部の人と一緒にこのビデオを見たら、どうやら当時は飛行機に水平にプロペラを配置するのが難しかったそうで、場面からしたら、そのへんで挫折したんじゃないかと言っていた)で、そのあとバートランド・ラッセルの元で哲学をすることになる。

もうね、ヴィトゲンシュタイン、変人過ぎて、憎めないんだけど。

ケンブリッジで注目される学者になるのに、家が裕福で戦争なんか事務職に行けるのに最前線に行ったり(で、最前線では、普通仕方なく配置された庶民の戦士からハブにされて、それでめっちゃ苦しんだみたいなんだけど)ケンブリッジでの有閑階級とのつきあいに耐えられなくなってド田舎に行ったり、教育レベルの低い田舎の小学校で数学の先生になったり、庭師になったり、本は発行するけど、印税とかもらわないで出版しちゃうし、その本になった論文だって、訳注がないとかで論文として認められるかどうか問題にされたものだし、庭師になったり、出来上がったばかりのソ連で、大学教授になろうとするのではなく、一般労働者になろうとして断られたり、でも、哲学者としては有能なので、ラッセルとケインズにケンブリッジに連れ戻されるんだけど。

禁欲的同性愛者だし。

まあ、今、言語がコミュニケーションの道具だとか、あたりまえに言われているんだけど、ヴィトゲンシュタインがそれを言い出したらしくて、映画ではラッセルに「哲学を馬鹿にしている」とか行って問題になったりしたんだけど、

フッサールとか、ソシュールとか、当時、同じようなテーマを扱った哲学者がいるので、ヴィトゲンシュタインをそれらのパクりだと批判する人も見たことがあるんだけど、

ても、最初に出した

論理哲学論考 (岩波文庫)

は、本当に論理学のような本です。なんでも客観的に論述できるようにしたかったんだろうな、と、思います。(私自身は、理科記できるところどころしか読めてないです。論理学の記号とかたくさん出てきて意味不明の部分がたくさんあるので)

で、言語っていうのが、現実世界を記述しているものではなくて、人間がコミュニティを作って、その生活世界で共有されたものが言語なんだ、というふうに方向転換することになります。

『哲学的探求』読解

(この本も買って持ってたのに、いくつか自分が大事だと思ったところに下線とか引いてたのに、実家において嫁いだら、母に捨てられていました。)

今、実物がないので、20年前のおぼろな記憶をたどると、まあ、職人さんが「煉瓦をとってください。」って、正しい文法のことばで言わなくても、「レンガ!」って言っただけで、煉瓦を取れ、っていう意味になりますよね、「レンガ」は名詞ですが、命令形になれるんですね。

まあ、このへんの話も、さっきのとは別の阪大生の人とメールで話していて、「フロ」も「メシ」も、少し前の日本語では、名詞ですが命令形になってましたよね、みたいな話をしていたのを覚えています。

この本、卒論とかでは扱わなかったので、読了はしていないのですが。

映画で泣くところがいくつかあって、完全に理解されることを求めるヴィトゲンシュタインに対して、ラッセルの愛人の有閑階級の婦人に

この返事に、

W「完璧でありたい。」(英語では、君は?みたいに続けて聞いています。)

婦「私は違うわ。」

W「それで友人になれると?」

婦「知らないわ。」

って、そこでこのシーンが終わるんだけど、まあ、今まで、私の生い立ちで、うまく人間関係を築いた人が少なくて、うまく言った人とは、かなり強くつながっていたと思っていたので、

友達を作る、ということに、というか、人間関係をもつことに、そんな軽い気持ちで生きていられる人がいるんだ、というのは、当時の私には衝撃的で

まあ、別のところで、理解について、ヴィトゲンシュタインが恋人の男性と添い寝しているシーンで、理解について肉体があることによってできる壁みたいな話をするんだけど、そこで

「私的な意味などない、我々が我々であるのは、共通の言語と生活形式を持っているからだ、言っている意味がわかるか?」

って問うところで、(英語で”Do you understand what I’m saying?”って言ってて、同じ台詞を、映画のもっと前のシーンで、田舎の小学生に一生懸命論理学を教えるんだけど、理解されなくて、生徒に聞いて、理解されてなくてキレたシーンがもう一度ここで再生されて

でも、この映画で恋人役になっているジョニーは(実際にこの役のモデルになった学生の名前はちがうものだったらしいけど)

ヴィトゲンシュタインへの理解を、穏やかに頷く、みたいな。(この青年は、良心が労働者階級で、お父さんは鉱夫で、両親がすべてを負担して、彼をケンブリッジに入れるんだけど、そんな彼にヴィトゲンシュタインはエンジニアの仕事を紹介してしまう。彼は自分でもソ連で労働者を志願するぐらいそれにあこがれていたから)

まあ、この、友達をつくるのに、そんな重心置いてないひとがいる、というシーンと、ヴィトゲンシュタインを理解してくれている人がそばにできた、というシーンは、当時何べんみても号泣なシーンだったんですね。

で、ラストシーンがやはり私にとって号泣物で。

癌でなくなりかけのヴィトゲンシュタインのそばに、ケインズが語り掛けるシーンで、ヴィトゲンシュタインの人生をひとつの物語にして言う。

「こんな話がある。世界を一つの論理にしようとした若者がいた。頭のいい彼はその夢を実現し、一歩下がってその出来栄えを見た。美しかった。

不完全も不確実なものもない世界。地平線まで続くきらめく氷原。

若者は自分の世界を探検することにした。

踏み出した彼は、仰向けに倒れた。摩擦を忘れていたのだ。

氷はつるつるで汚れもなかった。だから歩けない。

若者はそこに座り込んで涙にくれた。

でも年をとるにつれ、彼にはわかってきた。

ザラザラは欠点ではなくて、世界を動かすものだと。

彼は踊りたくなった。地面にちらばった物や言葉は汚れて形も定かでなかった。

賢い老人は、それがあるべき姿だと悟った。

それでも、彼の中の何かが表現を恋しがった。

そこではすべてが輝き純粋で絶対だった。

ザラザラの地面はいいが、彼には住めなかった。それで彼は地面と氷の間にいてどちらにも安住できなかった。

それが、彼の悲しみのもとだ。」

って、もう、本当にこのシーン、当時号泣物で、たぶん当時、100回ぐらい、時間あるときは、テレビから撮ったビデオで見て。

VHSなくなるで、みたいなときに、結婚してからDVDで出てるの見つけて買ったんだけど。

なんか、今置かれている時点でも、その、理屈だけじゃないもの、みたいなものが必要な生活と、自分が持っている、理屈で通るものに対するあこがれみたいなのが交差しているので、やっぱり「今でも泣くんかい。」みたいな状態でいたんだけど。

地表にも氷でも安住できない、みたいなの、たしかカフカの短編で、地下にも1階にも2回にも安住できなくて、上下ウロウロする人の話が、同じような文脈で語られている短編を、授業で読んだ気もするんだけど。

ちなみに、Noneとか、幼稚園の時にコレ無理やり見せられてトラウマなってるらしいんだけど。

まあ、当時、大学入る前に共産党の友達の親父から、「資本論が理解できないのは、君が大学に行っていないからだ。」って言われて、そんな19世紀の哲学者より、今はもっと現在に合う哲学者がいるはずだと思って、で、第二次世界大戦に参加していたぐらいの年代の哲学者のことを学んでいて、「新しいことやれてる。」とか思ったんだけど(実際、当時の学部の中では、新しいほうのことをやってはいたんだけど)

今、ハラリでもピンカーでも、他の話題になっている哲学者でも、YouTubeやTEDで現存の哲学者本人が話しているのが見れたりする時代になっていますね。

まあ、でも、学部の時にある程度勉強していたから、比較的ついていってその話が聞けているんだと思うんだけど。

って、昨日DVD見るので昼夜逆転して、今日昼、一応昨日から準備した用事とか、区役所から呼び出されたのでその対応とかしたけど、基本寝てました。

で、自分の勉強しようかなとおもったんだけど、どうしても、ヴィトゲンシュタインの映画が頭にしっかりあるうちに、自分の、どこをどう感動したのかを書き留めておきたくなったんです。

とりあえずこんな感じです。

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