まあ、人の事勘違いママとか言い出してるけど、じゃあ、自分は正解を知ってるの?みたいな。すごい傲慢やね。
個性、についての定義がお互い違うみたいやねんけど、簡単に個性って、定義づけできないみたいやね。ぱっとググってみたところ。
ちょっと、気になる文献があったので、今日、図書館行って借りてこようかなと。
って、私がある程度の知識層だと思う人の著作を読んだとしても、そんなアカデミックな人の文献より、私の経験値の方が上ですから、と言いだしそうな人だけど。
私は、昨日のブログで、親の強い希望とかはあってあたりまえで、それが自分に合わなかったときに自分で調整することも含めて個性、なんやと思ってるけど。
まあ、その意味で解釈されているかどうかもわからなくて、親が子を作品扱いしている親を否定したいから、自分に敵対している人をそう解釈したがってるんじゃないかなと、また思うんだけど。
まあね、相談してきた人への対応っていうのは、それなりだったんだろうけど、なんにしろどれだけ上から目線やねん、みたいな。
アタシはいつも正解、みたいな。
その勘違いママさんがしている、正解を子どもに押し付けることから、あなたが思う正解をその親子におしつけることに変えたただけなんじゃないかと思う。
ある程度、その親子を尊重しているフリはしてるけど、自分思う理想的な親子の許容範囲の中に押し込めたんだと思う。
子どもは、年を追うにつれ、大人の間違い、とか、自分がやりたいこと、をがわかってくる。同時に、親の希望をその上でどれだけ酌むかも考えるようになる。
私自身の考えでは、何をしてもいいんだよ、より、親はこうしてほしい、があるほうが自然だと思うし、むしろ何をしてもいい、のほうが、動揺が大きいと思う。
前に、役割期待とか役割葛藤とかいう言葉をブログで出したことがあるけど、
正直、生きてて、見た目とかそんなんで、あなたはこういうキャラ、という期待を、クラスの中とか友達とか、他者に期待されることって自然だと思うし、逆に、あなたはあなたであるがままでいい、なんて期待、理想的に思うけど、それ、その人に関心がないのと一緒やと思う。
実際自分はいろんな人を、いろいろ理屈つけて干渉しつづけてるわけだし。
それは、その親子自信が自力で解決すべき問題だ、とは思わないわけね。
その親が、子どもに正解を導くように話しているのと、あなたがその親子にしたことは何ら意味的に変わりませんから。
クラスの中でイメージづけられた、自分のキャラが自分のありたい姿と違ったとき、それを調整することもまた個性で、
その一番初めが、親のこうあってほしいから、自分のこうありたい、を調整することだと思っています。
あなたの会員家族は、あなたがイイモンみたいに言うために作る作品じゃない。
って、今日やりたいことたくさんあるから、この記事はここまでにします。
とりあえずこんな感じです。



ランキングに参加しています。応援クリックお願いします。