人生の選択について

今朝も、朝一番起きて太極拳して。

で、太極拳でも、やっぱり根詰めてやったら、筋肉痛になってしまって、逆に脚が動かなくなるので、筋肉痛に効くストレッチの動画とか見て真似してやってて。

昨日HSKonlineというアプリのレベルチェックテストをして、まあ、実際HSK4級受かった後、伸び悩んでるんだけど、あなたは4級ぐらいなので、5級を勉強しましょう、と。

5級レベルを問うてる問題が出てるんだろうな、というところで、語彙力の低さを感じる。

で、語彙を覚える簡単な単語帳機能のところで、語彙と意味と、例文とか見てて。(もう、中国語の漢字を日本語の漢字にしただけやん、みたいなのが多いので、意味は英語で出るようにして、英語の勉強にもしようと思って)

で、単調なので、Kindleの中国語の本とかも見てて。

午前病院に睡眠導入剤もらいに行って。離れて座るように指定されてるし、すぐ順番来て薬もらって帰れたんだけど。

午後、養成講座の授業が再開、というので、自転車乗って行ったんだけど、

中級の授業の1課の授業で、自分も自粛開けたら中級の授業入るし、復習しようかと思って。

お昼休みに行って、コンビニで買ったパウンドケーキとお茶してたら、ほかの生徒さんが、私がいつも授業を聞きに行っていた先生の授業じゃないよ、と行ってくれて

なんか、めっちゃしんみりした顔で、その先生はもう来ないみたいな話をされて

私自身は、今日、その先生から、コロナ後の日本語教師の仕事に対する考えを聞きに行きたくて授業を受けに行ったのだけど、確かに、これを機に、テレワークとか、オンライン講座をするとか、もう新しいことを始めてしまっているのかもしれないけど。

生徒さんの一人に、しんみりとした顔で空気読んでね的に言葉数少なくで伝えられたから、わかんないんだけど。

だから、もしかしたら、遠方から来られている先生だから、通勤で長いこと列車に乗らないで済むように、しばらく休むってだけのことかもしれないは同時に思って。

まあ、どっちにしても、私もう卒業してるのに来てたんですが。

ネット上で、それなりにキャリアのある人の、日本語教師、これからどうあるべき、は見れるんだけど、もとが、日本語教師こうあるべき、を授業受けた養成講座の先生から影響受けたと思ってるから、現状をどうとらえて、どう進むべきと考えてはるのか、それはめっちゃ聞きたかったんですが。

まだ問い合わせてないけど、ボランティアするつもりで、もし仕事が元通りに戻っていくとしたら、養成講座、卒業してるのに通っているのを、ボランティアに置き換えていかないといけないかもしれないは思ってたんだけど。

まあ、それでも、日本語教師の準備が楽な週とか、技能実習の仕事が少ないとき、教案が思ったより早く仕上がった週とかに、フラッと寄れたりはするだろうと思っていたんだけど。

まあ、自分、びっちりノート書くタイプだから、ノート見りゃ授業で言うこととか、聞かなくてもわかるんだけど、今日本語教育の界隈で起こっていることとか、先生の教えた、もしくは知っている日本語教師のひとの話とか、よその日本語学校の事情とか、先生がいままでした授業の話とか、実際に今養成講座で教えているときに、生徒さんから意見引き出すときの方法とか、そういうのが聞きたかったり見たかったりして通っていたんだけど。養成学校、いろんなポテンシャルの生徒さんいるけど、その人の持っているいいところを伸ばしていくタイプの先生だと思いますね。まあ、もともと、日本語教師とか、日本語ボランティアとかにかかわる人たちが、その先生がいいよって口コミで新しい生徒さん呼んでることが多い学校なので、もともとある程度知識があって来ている生徒さんが多いんですが、それぞれの生徒さんの持ってる味みたいなのを活かしていくというか。(未だに養成学校、春の入学キャンペーンやってるよ。私が入学するまえから今も常春なんだけど、併設の日本語学校の校舎増やす余裕あったら、HPの更新とかどこかに頼んだらいいのに・・・・)

むうう。(思考停止中)

で、今日は、パウンドケーキ食べた後帰った。

昨日ジュンク堂で、Noneに頼まれた本を買いに行ったのだけど、間違えた本を買って帰ったので、帰り道に寄って取り替えて。

まあ、今日、病院から帰った後、Netflixで「兄につける薬はない」を見てて、途中で養成講座行く時間になったから途中で止めたのでも続きを見ようかと思って。

ボランティアは、もちろん私のスキルとかで受け入れてもらえない、とかはあるかもしれないけど、参加可能なら行きたいと思っていて、でも、さすがにこの時期「ボランティア希望です」言うても、混乱しはるだけやろう、みたいに思うのでもうちょっと自体が安定するまで申し込まないでいようと思っています。

正直、短大出た後、普通に就職して、まだバブルはじけてないのとかもあるけど、家庭に問題があったこととかをわからないようにして職場の人と話を合わすとかが苦痛で、職場の人と話を合わすために見たくないドラマを見、一般ウケする会話ができるように努力するとかむなしくて、社会人大学卒業した後、酔っ払いのオヤジとか、今なら冷静に対応して、社会復帰のために協力できるんじゃないかと思って、そういう仕事探したら、心理学とかで院出て、資格持ってないとできないとかばかりで、結婚相談所とかで、それなりに教育費出せる人と結婚して、子どもが将来成長したときに、なりたい仕事が学歴とか資格とか関係あっても、手を伸ばせば手に入る状態にまで育てたい、があったんだけど。

主人から生活費援助あったり、Noneが就職して、生活費援助してくれたりとかで、私自身がまるっきり無職になるつもりはないけど、じぶんがやりたかったことを、ボランティアでもいいからできる身分になれないかなあ、みたいに思って。

私自身、子どもの時に、ピアノ教師の母親が「ピアノで食べていける人」しか将来の選択肢を与えてくれてなかたり、小学校に行って、それなりに話があう友達ができたのに、高学年になってその子たちがみんな塾に行って、自分だけ呆然と公園で時間を潰すことになって、そういう塾に行ける子と自分の就職の選択肢が違うことを思い知らされたり、(残された私、べつに公園でクリエイティブになったわけでもないですしね)中学行ったら母から、「将来はお父さんがつきまとってお金せびって、あんたにはまともな就職ないで。」言うて呪われて過ごしましたし、高校はバイト漬け、高2で父が亡くなって、「まともな就職」の可能性ができて、1年の準備期間で入れた、英文科短大と、バブル期だから可能だったマイナー家電メーカーへの就職をはたしましたが。

じぶんが、普通の家庭環境だったら、どんな仕事に就きたいと思ったかな、というのは、自分の人生を遡って考えても、想像がつきません。

でも、人間なんて多かれ少なかれそんなもんだと思うんです。

親が得意なこと、やれば有利になると思っていること、やろうと思ってもできないこと、などなど、の、影響を受けないことの方が無理だし、必要なのは親の愛情と、その子どもへの理解があれば、子どもを「ありのまま」みたいな、私から見たら隔絶したような環境に置かなくていいと思う。

プリントとか、今でもワルモノの権化みたいに言うひとおるけど、児童心理を考えてつくられたものとかもあるし、作業じゃないものもあるし、私自身、今はICTとか、もっと子どもが楽しめるものあると思ってるし、自作することすらできると思うけど、親がパソコン音痴とかなら、市販のプリントのコピーでもしかたないと思うし、なんなら手書きでもいいと思うんやけど。(このへん、ちょい、例のブログとか気にしてるやつな。英語、普通の人ドン引きするぐらいかけ流すのOKで、プリントやったらなんで批判やねん、思て)

今、ボランティアやりたいな、思って。ハンディキャップのある人生の中で、選択肢がものすごい限られてたけど、選ぶ側になりたいな、があって、

選ぶ側、で思い出したけど、牧師さんの奥さんに、「決まってるとこあるんでしょ?」にキレたのも、そのへんのことで。

Noneが「決める」側にあると考えてもらっているのではなく、学校側が決める話をしていて、もちろん受験なんて大学が生徒を選ぶんだけど、まだ受験が終わっていない子どもを持つ親に、選択肢を学校側にして会話しているところが許せなかったんだけど。(まあ、たぶん、牧師さんの奥さん、下っ端の教会員の子どもなんて、進学先がどこかあてがわれたらもうそれでいいや的に思っていたんだろうけど)

まあ、仕事辞めたとき、普通に再就職探せばいいのに、ゲーテインスティテュートに通いたいから、午前中だけ働けばいい仕事さがすとか、夜間の社会人大学行くとか、与えられた条件の中で、私なりに選択はしてたなと思っていて。(もちろんね、普通に再就職するのも、立派な選択ですよ)

今、日本語教育どうあるべきか、悩んでいて、今やってる仕事、全部続けるけど、いま見つけた選択肢に、オンライン教師と、無料のボランティアあるけど、無料のボランティアのほうをやりたいなと思って。

って、ボランティア言うても、行ったら元教師の人ばっかりとか、大企業を定年したシニアとかばっかりで、自分とか受け入れてもらえない、は、十分ありえるんだけど。(やりがいのあるボランティアあるあるやねんけど)

って、今日養成講座の教室の行き帰りに、

21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考

のオーディブル聞きながら走ってたんだけど、自由選択って人間はしてるのか、みたいな話のところで、自分が社会人大学行ってたときも気にしていろいろ文献読んでたところなんだけど、

まあ、今日言ってる、ボランティアしたい、っていう決断が、自分の生い立ちとか、現在の状況とか、自分の遺伝情報とかから、動かされるようにそう思うようになっているのか、そうではないのか、そういう、環境や遺伝などで置かれている状態から切り離した決断を人間はできるのか、みたいな話で。

自転車乗りながら聞いてたから、答えとか聞こえなかったけど、たぶん、そもそも答えを言っていないと思う。

なんかね、考えさせられたのが、AIが、その人の環境とか境遇とか性格とか身体データをとって、その人と同じ判断をすることができるのか、そして、もし、違っていたら、それはAIの計算ミスなのか、人間の方の判断の誤りなのか、もし、人間の判断よりAIのほうが、その人をよくする判断ができるとしたら、人間はAIの判断を頼りにして生きていけばいいのか、みたいな話をしていて面白かった。(チャリ乗りながら聞いてた記憶だから、正確に記憶できてないかもしれないし、もしかしたら全然違う話をしていたかもしれない)

まあ、いろんな意味で、人生の選択を考えさせられている。

境遇から自由にものを考えられるようになることがいいことなのか、境遇を踏まえた上で、その人の人生にとって一番の選択ができればそれでいいのか。

辛い過去に影響されない判断って、できたらよさそう、って思うけど、辛かろうが楽しかろうが、今置かれている状況を、今できる最善の選択ができたらどっちでもいいのかもしれない、も思う。

って、「兄につける薬はない」続き見て、きのう書きかけた数週間先の教案続き書くかもしれないし、思いついたことします。

とりあえずこんな感じです。

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