沖縄の・・・「ブラク」ねえ・・・
子どものころ、父のいた集落に通ったことがある。父の兄が、父の実家に住んでいて、ピアノを持っていたので、母がピアノ教室に週1回使わせてもらっていた。私は幼稚園に上がる前だったから、一緒に連れていかれていた。
従姉たちは年が離れていて一緒に遊んだ記憶はそんなにないし、伯父伯母ともそんなに話さなかった。でも、伯父は三菱系の企業に就職できていたので、家はりっぱな一軒家だったし、私が行き帰りに見た他の家も、それなりにきれいな家だった。
(追記:三菱系の企業に勤められたなんて、差別されてないじゃないかと突っ込まれそうだけど、父と年の離れた伯父は、戦争の時通信部にいて、タイプライターが打てたので、就職の機会がよかったという。その次の兄も、学歴は低いが、大阪の市バスの運転手になれたので、収入はよかったんだと思う。逆に大学に行った父の方が就職の機会にめぐまれなかったようだ。そういう意味でも、父が教育を受けた意味、について考えさせられているんだけど)
母のピアノ教室は、きっと相場よりは安くやっていたと思うんだけど、高い文化を身に着けられると思って、たくさんの生徒がきていましたよ。
主人と結婚して住んでいたのが、そこから自転車で10分ぐらいのところで、私が記憶する集落より、すこし経済的な弱者がすんでいるのかな、というところで、沖縄出身者の社会的立場を強めようとか書いたポスターとか貼ってるところがすぐ近くにあって、ここもそうなのかなと思ったけど、決してスラムみたいな場所ではなくて、
在日だったと聞いたから、沖縄の出自だと言って、マイノリティー同士だと手を繋げると期待して言っただけに、「ブラク」と言われたのはきつかった。
それも、教育のない人に言われたのではなく、神学を大学院まで学んで、教育機関で長くお勤めになられた方に言われた、在日といっても韓国語が第一言語というわけではなく、日本語として「ブラク」の意味を知っている日本語母語話者に言われた、ということですからね。
神学部では聖書とかギリシア語とかヘブライ語ばかり学んで、現代社会の諸問題は扱われないのかもしれないけど、学生のころ、やっと人権が意識されるようになって、それまでは人権に配慮した扱いを学校で受けられなかった、と腹をたてていらっしゃいましたよね。人権などを気にして、教育を受け、教育に関わる職業に就いた方が、好意的に近づいてきた人のルーツを「ブラク」と言いますか、は、めっちゃ思ってましたけどね。
正直、牧師さんのほうもね、教会のイベントで、知的障碍者のひとがコンサートを開いて社会参加する日に、コメントするとき、「できない子」を無理やり褒めています的な、「できる人」に重心置いて世の中をみていることがわかる発言をしていたのは気になっていたんだけど。
って、久しぶりにインスタ開いたら、めっちゃ中国語学習してる写真UPされてるわ。みんなめっちゃ勉強してる。自分も頑張らな。
追記:なんでブログで書くねん、って思われそうだけど、一緒に話せるようになろう、と思ってずっと隣の席に座ってて、少し会話ができたとか思ったら「ブラク」とかで、あとは、なんか教会内で優先度の高い人ばかり相手にして、ほぼ無視されるを2年間味わって、受験という我が家の一大事の時にも忘れられていた、という結果での話ですからね。
とりあえずこんな感じです。


