今日、教会に行って、
誰とは言わないけど、本来センターの時に、ひとことぐらい欲しかったけど、忘れられていたんだろうな、って人がいて、
今日、礼拝のギリギリ前で、試験どうだったんですか、って聞かれて、「センター、コケたんですよ。」って言ったら、「でも決まっているところあるんでしょう?」って言われて、ちょいカッとなって、「それでも某大行きたいですよ。」って、それでも礼拝始まるから、できるだけ静かに言ったのだけど
正直、あ、この人、Noneが某大行ける可能性なんか、全く考えてくれてなかったんや、思た。
まだブログで知り合いになって、メールとかで連絡をとるようになった人の方が、きついですが、個別で頑張れば、可能性がないわけじゃないですから、とか言ってもらえているのに。
正直、コケたセンターの点数でも、センターリサーチで、判定B、Cが前期で出ている、それなりの国公立大学あるんやけど、それでも判定Eの某大を受けるってNoneは言っていて、Noneが今から頑張って、合格最低点より上の個別の成績が出せないか、まだ頑張ってるのに、「決まってるとこあるんでしょ?」はひどいと思う。
なんか、そのあと、礼拝で座ってるのもきつくなったんだけど、っていうか、まったく上の空で神様に祈ってたんだけど。
教会のお年寄りとか、体調悪いとか、心配してあげないといけないこといっぱいあって、その話とか、昔はどうやったとか、聞く側になることを求められるんだけど、正直、年金とかで、もう暮らしとしては安定している人が多いのに、現在、仕事とか、生活とか、これからどうなるんだろう、みたいな悩みを持っている、まだ高齢者とは言えない人たち、あるいは、Noneみたいに若い人たち、の話は聞いてもらえない雰囲気で。
外国の人とか、神学部のある私立学校を目指す教会学校に通う子らとか社会的にいい立場のひとなら若くても歓迎されるみたいなんだけど。
正直、大阪を自転車で走り回っていて、気になっていた教会があったけど、Noneが小2からお世話になっているし、今の教会に通いつづけようと思っていたけど、そのNoneが受験の時に、この関心しかもらえないというのなら、考え直そうかなと思った。
もちろんね、今考えている教会でも、やっぱり社会的地位の高い人の方が歓迎されたりするんだろうな、って思うけど、Noneの受験のときのこのガッカリさをリセットしたくなっています。
今の教会は、今からの教会学校の子どものいる親子の方が大切そうだし。
ちょい、Noneがもう学校の授業とかなくなって家で運動不足になるから、ダンベル軽いやつでいいから、授業の合間に体力つけるし買ってきてといわれてるのとか、線のついたイヤホンで英語教材つかって勉強するつもりらしいから、イヤホンも買ってきます。
とりあえずこんな感じです。


