共感を得るって・・・

 あの人のブログが文章力あるとか評価されているとか、自分でひとから褒められてるとか書いてるんだけど。

 文章力をどう定義するかとか、かなり人によるんで、そう評価する人がいるのは「仕方ない」ことなんだろうと思うけど。

 まあ、今、文章がうまいとかいうのは、明治の文豪みたいに小難しいこと書いてるのじゃなくて、星新一さんが書いたように、難しくない単語を使って平易な文で、伝わりやすく書いている文のことを言うことが多いと思う。

 あと、欧米型の文章つくるように勧めるサイトとか多いし、ビジネスではそのようがいいんだろうと思う。

 自分自身は、自分が読んできた漫画とか芸人の喋り方に影響受けた、日本型の文章なんだけど、これは評価されるために書いてないし、自分の思ってること原寸大で書いてるから、読みやすさとか全然考えてないし。(大学の頃、めっちゃグライスの会話の原則とか勉強してたのに、それの、量の公準とか、思いっきり無視した長さで毎回書いてるからな)

 実際、自分も、話すのがうまいのは、宇治原君より、あまり勉強しなくても行ける学校の芸人の方がうまいし、人の心をとらえていることがあると思う。(千原ジュニアさんを家では宇治原君と比べて言うことが多かったんだけど、今調べたら、ジュニアさんって、けっこう難関高校に猛勉強して入って、そのあとやる気をなくして中退したらしくて、学力がなかったんじゃないらしいから、ここで学歴と話芸の比較に出すのは間違っていると思ってひっこめた。)

 重ねて言うなら、日本語検定N3の留学生でも、下手な日本人より話すのうまいひとはいると思うし、国語力と話す力って、別のもんだと思う。(あの人の読解力とかめっちゃくちゃなのは、あっちゃんの「いい夫やめます」のときにすごくわかったので)

 まあ、ブログでも、私国語力ありますとはどこにも書いてないからいいんだけど。

 あ、私、文章力ないかもしれんけど、読む方が国語力いる文章かいてるんだろうな、とは思う。めっちゃ鍛えられた娘持ってるから。たぶん。

 ひっかかったのは、あの人のブログに共感しているらしい人が結構な数(って、あの人の自己申告だけど)いるという話。

 まあね、あの人が身内のひとのことを面白く話すのとか、病気とか心配するのを書いているのは、身内には共感されるんだろうな、とは思うけど。あるていど、常識的な文章で書いているし。

 ってでも、自分の子、偏食で白ご飯とパンと(あと海苔だったっけ?)しか食べられないの、全然心配してなくて、それでも十分健康に生きて行けますとか、他の人が自分の子の偏食を心配しているのを、自分達が大丈夫だから、心配いらないみたいに書いてるのとか、人格疑うひといないのかなとか思う。

 偏食を心配しすぎて、強引にものを子どもに食べさせたりするのは、それはそれで問題だろうけど、今まだ子どもが小さいから健康でいられるみたいだけど、将来的に成人病になるとか心配しないのかとか、小さいうちの柔軟性のあるうちに、少しでも色々な物が食べられるように努力しなかったのかとか、思わねえ?

 このへん、子どものこと考えて、神経質になる人より、全然気にしない人の方が、受け入れられるという不思議。

 高2で推薦とかもらえるように勉強している我が子に、毎晩洗濯とかさせてて、子ども朝食の時に勉強とかしてて、で、続けて、話聞いてたら、ご飯作るのも掃除するのもたいがいダンナで、本人フルタイムのワーキングマザーってわけでもなさそうだし、洗濯も掃除も食事作りも仕事もそんなにしてなくて、なにしてるの?みたいな日常が書かれてるんだけど。子どもは感謝してもらえるから喜んでるとか、ダンナには愛されてるとか、書いてるんだけど、英語の教える仕事でも、けっこう雑用ひとに押し付けてるし、押し付けられてる方も、「こき使われ隊」とか言って喜んでるんだけど。まあ、うまいこと言って、ラクなポジション手に入れるのうまい人なんだなあは思う。

 まあね、掃除洗濯を嫌がらずにできる子に育てる方が、その子がやりたい学問をやれるようにする進学を手伝うより、生きていくのが上手な子にはなるのかもしれないから、その選択肢がいい結果だすのかもしれないけど、正直、子どもの可能性を信じなさいとか言って、子どもに習い事とかさせるのを否定していた人の子どもってこうなるんだ、は思う。それはきっと、子どもに習い事をさせて、それに興味を持ったり、それで得意になったり、とかを期待していた人が求めていたものではないと思う。

 まあね、掃除洗濯を進んでやれる子にするのは、いいことだよ、でも、ACのコマーシャルで、家の仕事たくさんあって、十分な教育が受けられない子の問題聞いたときと同じような、なんか、可哀そうな影みたいなのを感じる。

 このひとは、本当に周りの人の幸せを考えていますか?って、私は、たぶんあのブログで、「考えさせられるとこあるわー(ってたぶん肯定的な意味で)」って言ってる人とは違う意味で、めっちゃ考えさせられる。

 あと、身内にだけ優しいよねー。確かに、友人の病気のこと心配するのとか、ふつうに心配してるんだけど、基本あの人、他人の欠点とか点数低いのとか、私たちこんなんじゃなくて良かったねー、みたいに、生贄にすること多くて、たまにそうやって身内のこと心配してるのとか見たら、「身内にはやさしいんだ」みたいな感想しかもてない。

 まあ、そうやって、部外者をまつりあげて身内の集団的自尊心とか満たしている教祖は、信者からはかなりの共感をもらえるんだな、ということで。

 保育園だったか幼稚園だったか忘れたけど、自転車置き場がなくて、雨の日に送り迎えが大変で、近くの公園まで自転車で行って、公園に自転車置いて送り迎えするひとのこと、ルール違反を子どもに教えている、教育によくない、と批判してたけど。

  実際ね、困っている人が多い問題を、ルールだということで、従い続けることが、果たしていい教育なのか、は思う。

 前も言ったけど、保育園か幼稚園化が市のものだったりするのなら、雨の日に安全のために警備員さんか何かに来てもらって、雨の公園を臨時自転車置き場にするとか、困っている人を助ける方向には全然考えが行っていなくて、ルールなんだから困り続けていろ、みたいな結論で。

 そりゃ、雨の日でも公園でトレーニングしたいアスリートとか、たまにいるかもしれないけど、基本、雨の日に公園利用する人がそんなにいるか?

 公園を自転車置き場にすることでありえるトラブルとか事故とかが防げればそれでいい話だったんじゃないのか?

 そこで、ルール違反を非難することの意義ってなに?

 実際、まちがっている常識とか、予算が不足しておこる不便とかでできたルールなら、変えるほうで努力することを訴える方が教育になると思う。

 そういう、困ったルールとかを、正攻法で変えられるほうがいいのはわかっているけど、現実、守れない人、守らない人が多くて、ルールを変えることが余儀なくされるほうが実際には多いんだと思う。

 前に、常識を変えていくことをすごくいいことみたいに書いていたけど、結局は言うことはルールだから守りましょう、みたいなことを言う人だし。

 けっこう、学校のきまりとか、あのひとの家だって、自分の家の教育方針にあってないから、守らない話見たような気がするんだけど?(なんか、追加料金払って高校の補講かなにか授業うけることになってたの、あれ、絶対だったか任意だったか忘れたけど、確か基本的に受けることになってる話を受けてなかったように記憶してるんだけど・・・私立の学校とか、そういうの追加してもらって経営なりたってるところあるんだから、それイヤだったら公立行っとけよ、なんだけど。)

 自分が困るルールなら文句つけるのに、他の人が困ってるルールとか、ルールだから守れとか言ってるし。

 そんなんでも、身内の人には共感もらえるものなんだなーって、その人たちの判断力が不思議。

 って、こんなの書いてても、あの人ほとんどちゃんと読んでなくて、私、出る杭だから打たれてるの、ぐらいにしか思わないんだろうけど。

 もしわかってても、味方がいるから気にしないらしいし。

 たぶん、今でも、身内だけのSNSかなにかで、いろんなひとを馬鹿にして、自分ら最強、みたいにしてるだろうのはわかる。

とりあえずこんな感じです。

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