昨日、途中までブログ書いて、Noneに話しかけられてブログが書き続けられなくなり、時間も遅くなったので途中で寝ました。
(昨日の記事ここから)
夜中、何度も目が覚めて、仕事のために合わせた目覚ましは鳴らなくて、予定より遅れて自分で目が覚めて仕事には間に合う時間に家を出れる。
目覚ましは念のために2個セットしておいたほうがいいかもと思う。
仕事には間に合った。まあ、言葉にトゲを感じつつ、言われた仕事をして、3時間すごしました。
家に帰ったら、落ち込まないように中国語の勉強をして、昼からは教会の祈祷会に行っていました。そこでは割と穏やかに過ごしたと思います。
アマゾンのカスタマーセンターのひとが、中国の人が出ることが増えた。中国語を勉強しているし、日本語の話せる中国の人を悪くは思いたくないのだけど、不確かなことをすぐ断言してしまう人が多いのでちょっと参りました。
キンドルアンリミテッドの2か月99円のサービス、私は前に無料体験をしたのが12か月以上前だったと思うから、確かめようと電話したら、1人目の人も、2人目のひとも1度キンドルアンリミテッドを利用した方は、今回は2か月99円のサービスは使えません、と言いました。自分の利用履歴を聞こうとしただけなのに、1度利用した人は使えないと言われて、そんなはずないだろうと思って2人目に電話したのに中国の人で同じことを言われ、詳しく確かめたら、間違ってましたすいません、みたいな話になって、不安になったのでもう1度別な人、できたら日本人、と思って電話したのだけど、やっぱり3人目のひとも中国の人、
事情を話して、今回のキンドルアンリミテッドのキャンペーンのことをちゃんと知ってる日本人の人にかわってもらいました。
キャンペーン対象に当たる人は、キャンペーンのリンクから購入画面に入ったら、99円の人は99円と書いてある、と言われ、確かめると、99円になっていました。
中国の人の対応があるのが嫌なのではなく、ちゃんと研修してもらいたいですと言って電話を切りました。
でも、正直言えば、日本人の雇用を減らさないで欲しい、という思いも同時にあるのですが。
賃金の安い中国の人を雇うことで安価なサービスがある、ということに複雑な思いもします。
(とか言って、キンドルアンリミテッドだって、アマゾンミュージックアンリミテッドだって、安価なサービスだから手を出しているのですが、これは、どちらかというと機械化による安価なサービスだと思っているのですが)
今日、Noneは試験の最終日だったのですが、体調が悪いらしく、今日は自習はできないようです。
『みんなの資本論』の動画なら見てもらえるかなあと思って、途中まで見てもらったのですが、それも、体調が悪く、途中でギブアップしてしまいました。
残念です。(私的には、貧困家庭の問題を個々に解決しようとするより、格差社会の問題を考えた方が多くの問題が解決できそうに思っているので)
とりあえずキンドルアンリミテッドは2か月契約して、Noneに夏休み、アンリミテッドの本で読みたいものを読んでもらう話になりました。
私自身、また、ベーシックインカムの話でも考えていこうかなあとも思っています。
今またちょっと、労働って何?状態なので。
実際、生活できるお金があれば、それで遊びたいのではなく、それを生計にすることはできないけど、必要とされている仕事みたいなのに就くことができるのにと思います。
(って、ほぼここまで書いて、Noneに話しかけられて、私の時代は高度成長期に青少年期を迎え、普通にしていれば生活ができると予測されたので、お勉強を頑張る人って、目的意識が高い人とか、わりと世の中良くしよう、みたいな人が多かったのですが、Noneの世代は、自分だけは競争社会で生き抜こう、みたいな人が多い、みたいな、いままで何度もしてきた論争をしていました。私が見た、公立上位校に行った子とか、京阪神行った子とかは、おもしろい子が多かったのだけど、Noneの世代では、そういう面白いことをするだけの余力を全部受験にかけてしまった面白くない子が多いと言うのです。むしろ、特定の科目だけめっちゃ得意だけど、ほかは余裕なかった、みたいな子のほうが、創造性のある子が多いのに、みたいな話をします。まあ、それだからAO入試とか大学側も動き出しているんでしょうけど)
って、話めっちゃ変わるけど、リフォームしてフローリングにして、でも部屋狭いから、ベッドじゃなくふとんにしてるけど、めっちゃ腰痛めるわー。
脚がギクシャクしか動けないのが間違いなく悪化している。
今持ってるせんべい布団、処理できるように母に頼んで、そんなに高くない低反発マットレス買えたらなあ、と思います。
布団捨てるとか、母めっちゃ嫌がりそうだから(母はベッドを買ったのだが、母屋に残っていた客用の布団数枚をその上に重ねて使用していて、マットレスを買わなかった。)
まあ、私のばあちゃん(Noneの亡くなった祖母)の時代から家にある布団なら母もこだわるかもしれないけど、主人の家で購入した、母の実家のこだわりのない布団だから、大型ごみの金額が出せるんなら文句言われないと思うけど、隣の伯父とか叔父に文句言われそうな気もする。
まあ、脚つって歩いているの知っているし、その改善のために買ったと言えば、わかってはもらえるんじゃないかと思っているけど。
クーラーを無理して買ったのに、クーラーをつけると電気代がかさむと怒られるので来客時にしか使えない、みたいな家で、小学生の頃、濡れた髪で寝るのが嫌だから、ドライヤーが欲しくて、誕生日のプレゼントとしてなら買ってやってもいいと言われて、ドライヤーにしたのに、ドライヤーは電気代がかかるからと、1度も使わせてもらえなかった。それなら誕生日に他の物を選んでいたのにと、複雑な思いをした覚えがあります。
貧しいなら貧しいなりの暮らしをするのは仕方がないことだと思うけれど、無理してクーラーを買ったり、ドライヤーを買ったりするのに、後から電気代がかかるからと使わないわが家には、単純な貧困と言うだけではない、心の貧困みたいなのを感じる。
ドライヤーを使えないのなら、タオルをたくさん買った方がきっとよかっただろう。
それは、父のもとを離れてから、母のところで暮らすようになってからの話だけれど、母の頭が弱くなければ、いくつの不幸な事態がおこらなくてすんだだろうと正直思っている。
学校の成績じゃなく、頭がいい、ということ、頭さえよければ、避けれる不幸がたくさんあると、たぶん私は信じたいんだと思う。
Noneは、私と母の関係を見ていて、私が「あたまの良さ」みたいなものにすがる気持ちを理解しつつ、私が持っている、頭のいい学校にいけば、教養があって面白い人がいる可能性が高い、という、ほぼ信仰を、Noneは理解しつつ、それでも、自分のことしか考えてない成績のいいやつ、に対する嫌悪感も同時に持っているらしいです。
とりあえずこんな感じです。
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何度もコメントすみません。
私、Johanna Tさんに近くて遠い感覚を持っていて、すごく気になるんです。
>学校の成績じゃなく、頭がいい、ということ、頭さえよければ、避けれる不幸が
>たくさんある
↑の事、私も強く思っています。
中学生の時に両親が離婚し、貧しい家庭で育っています。
大学に行きたかったのですが、家計の問題で短大卒です。
高校時代にアルバイトで学費を貯め、全額ではありませんが出しています。
奨学金という借金を背負いたくなくてそうしましたが、後に国公立大の授業料免除の制度を知り、他にもっと方法はあったのだと気づきました。
うちの母は中卒で大学なんて全く頭になかったです。
というか、私自身も自分は高卒で働くのだと思っていました。
高1の時の三者懇談で担任の先生に言われたんです。
「君は大学に行った方がいいよ。勿体ないよ」って。
それで欲が出て上の学校を目指しました。
それでも自分の中で精一杯の贅沢で短大でした。
高校の先生には四年制大学を勧められたんですけどね。
バブル時期の短大には私の求めた学問はなく、中途半端に終わってしまいました。
10代20代の頃は自分の置かれた状況を何とか普通にしたいと願っていたように思います。周囲との差に押しつぶされないように必死だったと。
でも「普通になりたい」は基準が自分に無いんですよね。
「自分はこう在りたい」という行動が大事なんだと気づくまでに随分時間がかかりました。
大人になっても人って成長できると思っています。
私も母も成長しました。生きるのが楽になりました。
学校だけではなく、人間社会で学ぶ事の方が人生にはより重要だと感じます。
子供達にもそれを伝えられたらと思っています。
大学に行きたかったのに、家計の都合で短大だった、は、私もそうです。
ただ、その時はとても嫌だったのですが、高校卒業後2年後の短大卒業の時期はまだバブルが終わってなくて、それなりのところに就職できていて、もし4大に行っていたら、それなりの大学を出ていても就職が難しくなっていたので、運とは奇なるものだなと思っています。バブルも終わって、時代が深刻さを持っていた時に、社会人で大学に行った方が、学問ができていただろうと思っています。たぶん、私が現役で4大に行けていても、他の子がサークルやディスコやらに受かれているのを尻目に、バイト漬けで十分な授業の理解もできないまま単位だけ取って学位だけ手にしたような気がするんです。
私も、自分が本来やりたかったこと、が何だっただろうのか、自分で知りません。今持っている物、できることがこれだから、そのうちのこれを選ぼう、みたいな状態しか知りませんでしたから。
でもね、None育てていて、大金を持っていたら、なにも考えずに高額教材を買ったかもしれないけど、買えない状態みたいなのを長く経験していると、高額教材を買わないでできることを蛇の道は蛇みたいに思いめぐらすような自分になってしまっていることを、悪く思えないんですよ。むしろそんな自分が今では好きです。
お子さん、育てるの、頑張ってください。お金持ちがお金をかけたからできることよりも、ない状態から、自分に与えられた困難を克服しようとするから見える目的を、むしろ自分たちだからこそできることだと思って。
お母さんも学べると思いますよ。大切なのは学位じゃなくて学問することそのものだから、(もちろん探せば、オンライン大学とかで、無料とか低価格で学位がとれるものが探せばあるかもしれませんが)本屋や図書館を利用すれば学問はできます。遊んで卒業した大学生よりも、教養のある人にはなれると思います。大阪市とか、市大の公開講座とか、無料とか500円とかで受けれる講座もありますよ。(念のため書きますが大阪市民じゃなくても受けれます)
大阪市立大学 公開講座
確かに人間社会で学ぶことは大切です。でももし、学問がしたかったという思いがいまでもあるのなら、あきらめることはないと思うんですよ。
私自身、「じょあんなは家の環境が良かったら一番うちの家系でいい人生が送れただろうのに。」と親戚の伯父さんから私が25歳の時に人生を過去形で言われていしまって、ほかにもいい大学に行った友達の親から差別的発言を受けたこととかもあって、社会人大学の入学を決めたのですが、学問に集中できる時間が持てたことはよかったと思います。
お子さんがお勉強ができて、それなりの大学に行きそうだったら、お子さんの志望する学問について齧るとか面白いと思うんですよ。
まあ、おせっかいなことを言っていますが、文面からは、あきさんが今でも学問がしたいように思ったから言わせてもらいましたね。
コメントありがとうございました。
返信ありがとうございます。
私が感じる『近くて遠い感覚』の”遠い”部分が学問に対する考え方なんだろうと思いました。
私は今でも学ぶことは好きですが、大学や資格というものは既に不要と感じています。
学校で学ぶというのは、まだ道が見えない、新たな道を見たいと思う人がするものであって、すでに道があるなら、そこを歩く中で学んでいく事が重要と思っています。
人間社会の中で学ぶという部分です。
私はアルバイトではあるんですが、たぶん文化的と言われる仕事に就いています。
かかりつけのお医者さんに仕事の話をしたら「雅な仕事ですなぁ」と言われました(笑)
雅かどうかはわかりませんが特殊で面白い仕事です。
高校時代の友人が運んで来てくれました。
子供の教育に関しても学歴や資格だけではなく人間力を重視しています。
最初から高い教材も学習塾も興味がありませんでした。
子供自身に「学びたい」という知識欲をつけることに力を入れました。
現在、子供達に「勉強しなさい」という事は皆無です。
各々勝手にやっています。
私がすることは彼らの目標に必要な事や足りないと思われる部分をアドバイスするだけです。
それだけで驚くほど子供達は伸びました。
たぶん子供時代の私に必要だったのは『可能性』を見せてもらうことだったんだろうと思います。
遠回りしたおかげで今の子育てが出来ているので悪くはなかったのかもしれません。
私も、学位と学問は関係ないと思っていますが・・・(市大の市民講座も学位をとれるものではなく、趣味の教養的なものです。)
今既によいお仕事についておられるんですね。うらやましいです。
私は、前にいた貿易会社をやめて、とても文化的とはいえないコンビニ職についていますが、これは却って娘に、文化的ではない仕事の実際を見せれていると思います。すーっと貿易で食べていて、今になって、この種の仕事は、大企業の中にあるか、外国に奪われるかのどちらかになるだろうと思い、たぶん老後まで私の勤めていた小さな貿易個人企業はもたないだろうと思われて、年金もらう年齢になっても年金をもらいつつ働ける道をさがしたのですが、ちょっとうまくいってませんね。
まあ、今日のブログにも書きますが、わたしはまだまだあがかないといけないみたいです。
うまくいくといいのですが。